安中市まちづくり ワンワンチーム

「安中市の現在と未来を考える会」 【安中市まちづくりワンワンチーム】

第4回シンポジュウム 歴史家からみた市庁舎建設への提案

 

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それでは、住民シンポジュウム第4回

今日は伊丹先生をお招きしまして、ここに書いてあります。

「歴史家からみた市庁舎建設への提案」ですね。
いろんな市庁舎が変わってきた道があるようですので、

そのようなことを通して皆様にご提案させて戴きたいとそう願っております。

それが終わりましたら、前回から始まりました新ルールに基づきまして、あの、質問、それからご意見の時を持ちたいと思っております。

 

それが終わりましたら、また、今日も金沢さんからご説明いただきますように、
エコフレンドリー広場のご説明を戴き、また、私たちの活動についてのご提案も戴きたいと願っています。

そんなことでよろしくお願い致します。

早速、伊丹先生からお話をお願い致します。よろしくお願い致します。

はい。

皆さん、拍手(一同拍手)

先生、座ったままでもいいですので。

 

はい、ちょっと足が...。座ったまま失礼いたしますと、いうことになると思います。

一応、あの、まぁ、あの~。歴史的なコトを話してゆくことになると、喋っているだけだとどうも、ピンと来ないところがあるんで、ポイントだけは、一応、お手元に配られたらと思うんですけど、纏めた紙2枚ですか、「明治以降の安中市」というカタチで書きましたんで、ただ、ちょっと私、あの機械がちょっとオカシクなっていましてね、「の」がどっかでどうも抜けている部分がある「の」の字だけちょっと入らないところがあって手書きになっているところがあると思いますけど、まあ、読めないことは
ないとオモイマスので。

 

で、お配りした資料は、纏めたそのお話をしたいと思うポイントだけの紙が2枚。それから、安中の藩主の一覧表です。それから小さい方はこれは大小区ですね、これは要するに、あんまり聞き慣れてないと思いますけども、大区、小区というのがですね戸籍区のあとに明治の初めころに、創られたので一応、安中・松井田 どう言うカタチできたかと、同時にこれは、当時の偉い人が「こんなことやってたんじゃ、ダメだ」という、アレを出した為にですね結局、この、「大小区」って言うのが消えてゆくんですね。

 

ま、そんなような経緯だとかですね、それから、もう一つ、お配りしているのが、自治体が今の安中市役所ができる時に、自治体ができた、その経緯ですね。これはちょっとあの、私自身も、喋り方によっては批判ともなんともなってしまうので、あくまでも歴史的なことですね、と、いうことは、安中市史の2巻にそれがありましたので、そのことを書いたものを2枚ほどお配りされていると思います。話の途中で、そういうのを参照しながらお聴き頂ければと思います。

 

で、まだまだ、淡路先生やなんか、知っている方が一杯、おるんで、またそちらの方にアレしていただきたい。と、思いますけど、一応、そんな事でですね、じゃ、座ったままで失礼いたしますが、最初にその2枚のですね紙の方を出して頂ければと思います。

 

「明治以降の安中市

 

というので2枚あると思います。
これで頭の方を安中市の流れだけですか、そこで、良く言われるんですけれど
「安中領」 とそこへ敢えて書いておいた。藩というのは普通、よく「安中藩」或いは「沼田藩」とかって「藩」という言葉を使うと思うんですよ。ところがこれは「公式な言葉ではない」ですね。

公式に使われたのは、明治の元年辺りから廃配置県の「藩」が無くなった時。
までの話で、しかし便宜上ですね、だから、安中なんかの場合は通行手形でも「安中領 誰々」とかそういう形で書かれているのがあって、「安中藩」なんて言葉あんまり公文書では使わないっていうのが本来だろうと思います。

 

「安中領」っていうと、良く、皆さん誤解されてるのが多いので、この一覧表をちょっと見ていただけますか?こういうのが行っていると思うんですね。

安中藩歴代藩主」の在位と石高と これ、なんか見て戴けますと、全部で井伊家からはじまって、板倉家のこれ2代目の後の板倉 板倉っていうのは2つあるんですけどこの中に結局、井伊、水野、堀田、板倉、内藤それからまた 板倉と。

結局、6つの藩が 丁度、井伊直弼が、箕輪から高崎に移り、それから、関ヶ原があってですね
結局、関ヶ原のところ、同じあの あそこは あの、地域なんですね、あの。琵琶湖の近くですけどもああいうところのですね、所に移って、あの井伊直正は関ヶ原の戦いの時に鉄砲傷で、間も無く亡くなるんですね。

 

で、そのあと、井伊直勝が跡を継いだんですけども、丁度、なんですか、大阪の陣が始まったもんですからその時に直勝の弟の直孝ですか? これがそこのお寺にずっと15歳くらいまで居たようですけれどもそれが行って活躍したもんですから、元氣の良い弟の方に井伊家を継げという形になってですね、あのころまだ井伊家は
18万石あったわけですね。 

 

澤山からこっちへ移った後ですから、18万石あって、ここにまだ3万石ぐらい
あったもんですから、長男が浮いたようになって、この井伊直勝が安中に「立藩」すると、主には関所を守れと、だから、あの、碓氷の関所だけかと思うと杢ヶ関所だとか、それから オウド だとか、そこら辺の関所、或いはランボク、サイモクの関所なんかも一時期みんな管理するような時期もあったというようなカタチでですね。まあ、井伊家がここへ来て、最初、三万石でやったと。3万石がですね、丁度、真ん中辺りのところにですね、水野辺りが2万石

それから板倉の最初の頃は1万5千石とか。それから内藤家になるとまた2万石、それから最後、板倉勝清がですね西の老中ですか、西の老中って言うのは、江戸城の西側にあるから西なんですけども 主には将軍の長男とか、或いは将軍が隠居したとか、そういう隠居なんかしたような時に入るのが西の丸ってやつですけれども、そこの老中になったもんですから、そこに書いてある、下から何行目くらいですか_? 板倉勝清、時代の人の名前はちょっと難しいですね、読み方が、ですから敢えてカナ振ったやつを出しておいたわけですけれども、その勝清がですね2万石から3万石へと書いたのは、そういうことで、それと同時に領地がですね、私どももそうなんですけども、
このまわりは全部安中藩かなと思うと、とんでもない間違いなんですね。

 

要するに、碓氷川から向こう側でですね、
安中藩で使ってたというのが、なかび だとか、あすこらへんの要するに御料の向こうっ側ですか、あれが安中藩ですね。それから、こっち側に来ると、かみ、秋間、中秋間、下秋間ってありますけど、最後の板倉家の時はですね、秋間なんかの場合、
中秋間のほんの一部ですよ、あとはみんな向こうは旗本の領地ですね。

それから碓氷川の向こう側もですね、妙義の黒門坂の下からですね、磯部のところに赤木神社っていうのがあるんだ、これ、赤い木って赤城山の赤城じゃないんですね。あの、Redの赤い木と書く、赤木神社っていうのがありますけど、
磯部のあそこら辺のところは「赤木村」って言ってたわけです。それを全部、川田という人の1200石の旗本の領地だったですね。ですから、おく〇〇とか、あそこらへんの 磯部辺りまではずっとただ途中にですね矢代のところがありますけど、あれはおばたの領地でもう、色々と入り組んでいたってのはあの時代です。だから全部アレじゃない。だからこの辺にあったのは、ずーっと含めて1万5千石くらい。

 

残りの1万5千石はどこにあったかと言うと、そこにもありますようにですね、
一番下の表のですね、ところの後ろから2行目のところかな?
勝清の欄のところに「碓氷、群馬、緑野3群の内にて2万石、碓氷、群馬及び、下総国匝瑳、香取、海上5群の内にて1万5千石」ですね、だから半分は千葉県なんですよ。

この前の東北の地震の時に、ここら辺りもですね。

で、陣屋はですね、太田という太田村というところに陣屋があって、今、旭市という市になってますけどもそこが陣屋だったわけですね。で、アソコらへんの方は主にはなんか、話に依ると江戸の藩邸の人たちが行って、何人か行って支配すると。
で、米が上がれば利根川を使って、江戸へ持ってっちゃえばいいんで。そんなにあのアレはなかった。

 

ただ、あの幕末の頃になると鉄砲担いで、九十九里のですね。あそこはすぐに九十九里浜ですから、飯岡助五郎ですか?やくざの話が出ますけども、あれから行くと、隣は銚子です。銚子も5千石は高崎藩ですから、まあ、あすこらへんも相当ですね、香取だとか、香取神宮なんてありますけれど、香取、匝瑳海上群だとか要するにひっくるめて、23ヵ村は安中の領地だったと。

で、そっから米を獲るのが1万5千石と、よくありますけれど例えば、安中3万石って言いますと我々がピンと来るのが、3万石かな?と思うと実際はあれ、籾のついた米であり、俵で来るわけですからあれを磨り潰して要するにブドガリってそうする玄米ですか?これにすりゃ、半分になっちゃう分けなんですよ。

50パーセントっていうのが大体普通ですね。だから、1万5千石位の実質使うってかですね。

だから、あの田中丞っていう松本藩のところで、大騒動を起こしたあのアレがありますけど田中丞なんかの場合はあの頃のコメっていうのはドベが長くて、それを踏みつぶしてノビをなるべく取ってガサにならないようにして出せっていうのをやってたっていうのが、田中すけ、いまでも記念館があってあすこに相当な騒動をやってたのがありますけどね。そういうような形で 要するに 籾。で、要するに一石っていうと大体、今でいうと、昔のアレでいうと一両ぐらいってよく言われる。人間一人が一年間食べるのが一石必要だと言うぐらいの要するに量だと。ただし今は、あんまり、あの、米、食べないようになっちゃってますから、一石食べるかどうか分かりません。

2俵半ですか、それぐらいあれば1年間米については、まあ、なんとかなるっていうのがアレだったと思うんですけど。

まあ、安中藩の場合はですね、今、申し上げましたように、3万石っていうのが最終的なアレで途中1万5千石になったり、2万石になったりと言うような形できて、そして明治になってですね。これはあの纏めた方のプリントを視て戴きたいんですけども、明治になってですね、要するに、色んなことが変わってきます。

で、そこんところにちょっと歴史、暦のことが書いてありますけれど、江戸時代の時、大の月、小の月ってなんですが、「同中〇〇鏡」なんていう、絵が描いてある店の絵が描いてあるところに、よく、あの細い札でですね、大の月 とか 小の月とかがぶら下がっているのを観たことがあると思うんですよ。

小の月っていうのが29日ですから、一ヶ月が。
大の月は30日なんです。

で、要するに、陰暦を使ってですね、要するに月が一巡りしてくる新月から新月。満月から満月までのアレを一つの単位としてやってるもんですから、まあ、余分なことですけれど、そこに小さな字でですね大と書いて30×7 要するに「西向く士(にしむくさむらい、にしむく = 2 4 6 9、士 = 十一)」。5か月ですか。で、その残りが7か月で1年12か月ってカタチですけども。
30日の7倍で210日、それから小の月は29日×5で145日、合計、355日が1年間。今では、365日。10日足らないんですよ。そうすと、10日足らないから、10日を3回重ねれば30日になる。それで何かというと、1年間が12か月じゃなくて、13か月必要だがまあ、簡単に言えば4年に一回、3年に一回、入れてきたわけ。ただそれを入れるのはもう、天文方が決めますから、規則正しく
4年おき、3年おきに入ったかというとそれは入れない。いろんなアレがありますから。

 

まあ、そんなことでですね、最初は大の月、小の月、それがですね、明治になった時に、太陽のと月のと両方混ぜて、始まったのがそこにあるように、太陰・太陽暦ってやつですね。
明治5年の12月2日をもって、太陰暦を切って、太陰・太陽暦に変えたのが11月の3日からなんです。これは、明治6年の1月元旦、1月1日って言う風に切り替えたんです。この時に。だから要するに1か月くらい消えちゃっているカタチになるんですけれどもね、そういう形で明治6年1月1日からですね。
だからですねだから、今の暦と江戸時代のそう言う時の暦と比べたら1か月くらい、こう、ズレていると例えばあの、なんですか、あの、元禄15年の討ち入りの話がありますね。12月14日の夜から15日にかけて今の暦に直すといつからかっていうと、1月の30日頃なんですよ。だから雪が降ったって、おかしかないし

 

よく、遠足(とおあし)の時にも私ですね、おかしいな?と思ったのは遠足(とおあし)って、熊野神社行くと、最初は切干し大根だとか、そういうのを出してた。ところが、今、皆さんご存知だと思うんですけどこんな大きな桶にもろキュウ🥒一杯用意しているんですんよ。キュウリに味噌附けたやつを。着いたら、みんな食べさせるんですよ。
あの頃なんでキュウリが出たのかなぁ~?と。で、記録を調べましたら、8月の3日か4日に一番最初にランナーかいるんですよ。その時の2組だけにキュウリが出でる。だから、今でいえば 温室であり、いろんなカタチですから、キュウリなんてのは相当早くから穫れますけれど、あの時代にですね、なんでキュウリが6月ごろからですね、出るようになったのかなぁ~と不思議に思ったわけですよ。ところが実際、調べてみると、キュウリが出たっていうのは8月の頭の時の2組だけなんですね。

だから要するに、そういう風な形で 今の時期とそういう時期と、全然、ずれていると。言うようなことを、一つ、頭の隅の方に置いておいてもらえたらと。いう形になります。

 

で、丁度 明治6年っていうのはですね、面白いことに1年が13か月の歳なんですよ。そして明治5年の12月を切れば、暮れの手当て無くていいわけですよ。
翌年、また1か月分を払わなてくもいいと。と、いうようなもう両方、ひっくるめて
1か月切っちゃって、都合良く変えちゃった...というのが、まあ、この時の話じゃないかということなんですね。

 

まあそんな事で要するに暦もですね。今は、30、31それから、28、29 と、4つのケースがありますね。江戸時代には、大小しかなかったと。いうような形でですね、始まったと思うんです。

 

ま、そんな話してますと、キリが無いんですけど。

 

それから、そこに明治の初期にですね、一番大きなアレがそこにありますね、廃藩置県とか、版籍奉還、これ、あのう、版籍奉還って 版っていうのはそこんところにもちょっと書いておいたんですが「封」という字がですね「ふうど」と読むとこれは「盛り土」になる。「ほうど」と読むのが、大名の国替えっていうのは移方と移る方と言い方しているのが正しい国替えなんですね。封土=大名の領地のことを「藩」って言ったんです。版籍奉還 。籍は人民。要するに領民ですね。これを要するに時の新政府の声を介して、みんな徳川家から何万石ってもらっていたのを、それを全部、返したのが「版籍奉還」であり、廃配置県ていうのは、その2年後にです。藩を全部なくし、この時に藩という言葉公式では、消えるんです。

 

この時から要するに廃藩を無くして、県を置くと。
北海道と3府。3府っていうのは、東京と大阪と京都ですね。これが3府で。
あとは72県。こういう風な形でですね、明治4年に廃藩置県が行なわれた。

その時にですね、明治4年にですね、後で出てくるかと思いますが、吉井藩だけはもっと早く返しちゃったんですね。ですから群馬県の一次群馬県が出来る時には、吉井はもう岩鼻県の中に入ってしまってますからその数と合わないところが出てくるかと思うんですけれどですね、で、要するに、下のところに、第一次群馬県、熊谷県、第二次群馬県、と、こうありますけど、一次二次の違いは何かというと、今でいう、(板鼻だとか)舘林だとかですね、それから向こうの太田の方ですか?アチラの方が、今もコロナが大分問題なっている〇〇〇〇向こうの方、 特に舘林だとか、それから邑楽郡と、山田郡というのがあったんですけどこれらは全部栃木県だったんですよ。最初は。群馬県ができた時には。

 

その栃木県だったのが、また戻ってきたのが第2次群馬県です。で、途中、熊谷県ができたのは、入間と埼玉県の入間と群馬県が一次群馬県がくっついてですね、
熊谷県というのができて、それが要するにこっちに戻った第2次群馬県の時に、最初に県庁を置いたのは高崎なんですね。

高崎の駅近い・・・。  これも色々な経緯があって前橋に行ったきり・・・。いまもって 県庁所在地は前橋になってるという歴史があるわけです。

 

それから、その他のところにですね、明治5年。学制公布。森 有礼(もり ありのり、正字体:森 有禮)
それから、地方(ぢかた)の三役廃止(名主、組頭、百姓代)村の役人 名主=東日本 庄屋=西日本 戸籍区ができた時に混乱するってことで消えた。

明治6年に信教の自由 キリスト教を全部禁止されてたんですけども、外国との付き合いも始まって来ますといつまでもキリスト教を迫害しているわけにもいかないってことで、信教の自由は主にキリスト教を信仰しても良いという形に変わる。

それから、同じ明治6年には徴兵制が出てきたと。この徴兵制もですね、色々な問題点が出て来て、ごちゃごちゃになり、後で出てくると思いますけどおかしくなってしまう。
それから地租の改正。土地を全部調べ直して今でも、〇〇へ行けばですね、誰が持ち主でとか、この部屋くらいの所に全部入ってます。
ただ、人種差別があるので、松井田のこういう書類は出してくれません。あの前、坂本の書類を貰って。

それから、群馬県のあれは先ほども申し上げたようにですね、一次群馬県というのは、山田郡とかそれから邑楽郡だとか あっちの方が栃木県に入ってきたのは
今で言えばこの一次の時にはなかったわけです。熊谷県という入間やなんかとくっついて熊谷県ができて、役所を熊谷に置いておいたということから、そのあとすぐ
それがですね第2次になって元に戻った時に 邑楽とか山田だとかあちら舘林の方は群馬県に戻って、第2次群馬県になっていると。

そしてですね、明治になって明治4年4月4日に戸籍法が制定されたと。
これは要するに、戸籍調べない。今までは戸籍っていうのは名主さんがですね、2月ごろですねあの「宗門改め帳」とか言ってですね「何々寺に属する」と、いうこととか、そういうの書いたやつを藩主の方へ出すわけですけれども、その時のですね、アレが要するに人別帳ってやつですけどそれに代わって、戸籍法っていうのがあって
そこに書いておきましたようにが、7~8つ位の村を一区として戸籍を調べる。ところが戸籍だけ調べるわけに行かないですね。段々やっているうちに一般事務から出ちゃうわけです。そこで、戸籍っていうのは一年くらいでなくなって

そのあとに、そこにありますように、大区小区が翌年5月5日に出来て来て、結局戸籍区は廃止になっちゃったわけです。

小さな紙がそこにあると思うんですけれども、この紙、ちょっと見ていただきたいんですけれどもこれが、大区、小区の図なんです。この群馬県の図がありますけれども、これ小さいんで申し訳ないんですけど、真ん中辺りに、分かり易い4という数字が真ん中にあるとおもうんですけれども、1からずっと時計と反対回りに回って番号を
つけて行った 中心からずーーっと 18、19、20ってずっと上の方これ、沼田やアッチの方になると思う。

そして、23っていう一番右下の方「ツル舞う形の群馬県」の尻尾の方のところに23っていうのがあると思う。これが栃木県に入っていたところなんですよ。第一次群馬県の場合は。時計回りにグルグル回りながら、番号を付けて行ってですねそして
そこら辺が何番なったとかというと、その下の方のところに書いてありますように、第11大区 そこの中をまた小さく分けてですね、第3小区とか、第5、第6、これ安中についてだけの話ですね。

 

それから、松井田の方へ行くと、第21大区。()してあるのは、今の安中市になっていないところですね。ですから、例えば第21大区の真ん中辺りに第6小区っていうのがあると思うんです、これが、妙義町、岳村、大牛、それから諸戸、行沢、中里です。 これは主に中心は小幡藩の領地がだったところですね。
ここら辺りが要するに、番号がこうクルクルしてきますから、自動的に機械的にこうやったと。言うような形でこういう風なものが出来て、これがそこに書いたと思うんですけど、明治4年に戸籍区が出来て、すぐ1年くらいで大小区に換えて、そしてこれも明治5年ですか。明治11年には、新安中市ができちゃいますから、これも6年くらい
大小区っていうのがつけられてた。大久保利通が、今でいう簡単な言葉でいうと「いちゃもん」をつけたんですね。こんな 駄目だ。と。

 

今までは農村の人たちが話し合ってうまくやってきたのにも関わらず、ただ上から命令が来てるだけ。それを受けているだけと。いうのが大小区の運営だったわけですね。そういうことやったんじゃ駄目だっていって、大久保利通太政官の方に意見書を提出したわけです。

それが認められた。そのすぐあとですね、麹町で暗殺されちゃったのが大久保利通ですね。

そういう歴史があるわけですけれども、要するにそういう事でですね、大区、小区っていうのは一つのあれですけれどもこれがですねそういう風な問題点が一杯あってということでそれと同時にさきほどありましたように、徴兵制だとか、或いは、学区制って言って学校を作る立って、地元のところで金出して作れって言うんですよ。国が出してくれるわけじゃない。だから、いろんな問題点が出たわけです。そんな関係でですね。ごちゃごちゃごちゃごちゃしたって形があって、結局、この大小区も駄目になってゆくと。言うような形でですね。

明治11年になってですね、最初の地方自治。これが何か?っていうと
府 大阪府だとか、京都府だとか、そういう府の下に郡を置けというのが、明治における最初の統一地方制度のハジマリですね。郡や府を置いて、名称は今まで通りでいいと。いうような形で、始まったということです。

 

だからそのまま要するに、使ってですね、明治11年に統一地方制度が最初に出来て来たという形ですね。

そしてそのままそれが継がれたあとですね、明治22年になって、要するに 市、町村制の施行が行われたと、いうような形で明治22年に本格的になってくるという形ですね。
そこんとこ少し書いておきましたけれど、明治22年4月「市制・町村制」施行される。安中の場合は 明治5年に「安中駅」と。これはですね、安中城って城があったわけですから安中藩邸と安中宿がくっついたわけですね。これが要するに安中駅。というのはどうもこの、詳しいあれはないんですけれど安中藩の安中と、中宿の宿。これをくっつけると、安中宿になっちゃうわけですね。そこで要するに宿場っていうのは、要するに、そこの横に小さく横に宿駅(しゅくえき)とも言ってたわけです。
だから宿駅の駅をとった安中藩と安中宿がくっついて、「安中駅」という形に替えたという。ま、厩(うまや)という言い方もありますけど、普通 宿(しゅく) これを宿(やど)と読むと旅館になっちゃうんですね。あの江戸時代辺りで「やど」とこれを読みますと、宿(しゅく)じゃなくて宿(やど)になっちゃうというんで
旅籠屋になっちゃう訳です。ですからこの時にですね、安中駅というのが明治5年に2つくっついてできた。あの今のですね、上野尻と谷津のところっていうのは安中藩ができる時には相当、ごちゃごちゃにしちゃってアソコらへんの境目が非常に分かりにくくなっちゃったらしいですね。

 

そして明治12年になって、新安中駅。これはですね、安中駅に下野尻と谷津と常木村っていうのは今の新島学園の川向うのところですか?と上野尻というのが松井田寄りの方ですね。下野尻、これ上下(かみしも)っていうのは京都に近い方が上(かみ)なんです。京都に近い方は上町になって江戸に近い方は下町(しもまち)なんですよ。松井田でも上町は一番横川に近い方。それから真ん中が中町で、それで安中に近い方は下町と。上、中、下 っていうのは京都を中心に考えている。中山道がこう巡っているんだからっていう感覚でいうとわかるんですよ。これ逆に巡るとなると、逆さまじゃないかと。ただ唯一ですね上総と下総は逆さまになってます。
千葉県ですね。どうして逆さまになっているか?って言うの、この間ある本に書かれた人が居たんですが、結局、下総っていうのが一番安房の先の方ですね。上総っていうのが今の結城だとか茨城県もひっくるめてのところなんですけれども、どうもあの大国主命が奥さんを三浦半島で亡くした時に、吾妻と熊野神社で言ったと言うんですけれども
どうも、三浦半島から千葉の方へ渡るのがあれが本来の道だったみたいです。ですから、向こう側が上、ようするに京都に近い方。

だから上総っていうのが向こう側になっている。今のアレと逆さまです。本来なら東京に近い、こっちの方が上総になって向こうが下総にならなきゃいけないんですけど、どうもそうじゃなくて逆さまになっているところもある。

まあ、そういう言葉のアレってのは面白いところがあるなとは思うんですけれどもですね。

で、そこにありますように明治12年に安中駅でこれはそういうので合併。明治22年には本格的な合併があってこれは 新安中駅と古家、高別当
それから岩野谷、岩井、野殿、大宿 これがくっついて頭だけとって 岩野谷という村をつくったわけですけども。
これらが一緒になってですねそういう形で要するに安中町ができると。この岩野谷のところの中宿が、こっちは本来岩野谷入るやつが安中に入りたいと、街道のアレなんだから安中へ入れろって言うんで、結局安中へ入っているっていう形があるわけですけどね。だからそういうような形でですね、明治22年にそういう形で まあ、安中っていうのが、段々こういう町になってくると。

(それから序でに町の調査合併の時に、ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。)

第2次 これがですね、戦後になるんですけれども
GHQという、これは皆さん、お聴きになったかと思うんですけれども終戦になった時にですね、
アメリカ軍が日本を占領してきたその時にですね、日本の経済を立て直さなきゃならないって
聴いたことあると思うんですけれど、ドッチ・ラインっていう言葉。これはあのアメリカのですね。
銀行家、デトライト銀行の頭取りの名前なんですね、ドッチ・ラインっていうのは。
これが要するに、ドイツの貨幣経済を通貨改革をですね行ったあと日本にですね呼ばれて来て
財政顧問をやった時にこの人はアイゼンハワーの下で働いた予算局長なんかをやったような人なんですけど
これがですね、昭和29年には正式に大統領特別補佐官をして、あの、日本に来て、日本の要するに
経済関係ですか財政関係を当時は1ドル360円 今、1ドル110円くらいですか。
進駐軍の連中っていうのは、相当いい暮らしをしたんだろうと思うんですよ。
向こうの換算からすると全然違いますから。

それからそのあとですね、ベースとしてアメリカの対日政策の転換があったんですね。
これは何かというと、日本は負けて占領されたんだけれども
これをアメリカは逆に利用したということで、極東における共産主義者への対抗力として
日本を使おうという形になったんですね。昭和23年に日本が本格的に取り組んだらそれもあって
アメリカも始めてるってわけです。

だから物資やなんかもドンドン入ってきてそして、統制経済から市場経済へと移させてたり 
或いは国際収支を平均化してくるというようなこともやったのが、そういう時代の形ですけれど
その後、シャウプというこれ、コロンビア大学の教授だった人ですけれども、シャウプ勧告というのを
聴いたことあると思うんですけれども、日本の税制を直してゆくということで、結局明治22年の5月10日に
日本に来て、8月26日にその調査を報告して 今でいう青色申告だとか、或いは所得税の税務行政の
整備だとかそういうのをやったのが、このシャウプなんですね。

そういう時に、シャウプが何を見出したかというと、市町村をゆうせいに掲げて弱小の町村は
合併させろと言うのが、このシャウプの考え方です。そこで出てきたのが町村合併促進法案が
日本の国会で作られてそれが昭和28年に国会に提出されて、要するに約8000人くらいの
町村が住民を中心として一つに纏めて、小さな村や町にしておかないで大きくしろっていうのが
このシャウプ勧告だったわけですね。

で、その成立が行われてですね、どういうカタチになったかというと、碓氷郡に県から試案が出て
碓氷郡を西と中部と東に分けたんですね。西っていうのはどこかというと、松井田を中心に6ヶ町村合併
松井田、坂本、臼井町 西横野 九十九、細野 この6つの町が合併したのが西部のこれが29年5月の3日。
これが全国で一号の町村合併で有名になったらしいんですけどね。西の方では松井田を中心に
6ヶ町村を纏めたことになる。中部はどうしたかというと、安中町、原市町、磯部町、東横野村、秋間村、
後閑村が、要するにこれだったんですけれども、ここでですね、すんなり行かなくなっちゃったんですね。
これが29年の話なんですけども、実際この 安中が合併した時には、昭和30年の3月の1日頃になって
やっと合併ができるってカタチになるわけですけども、で、それでですね、東部と書いてある
八幡村は高崎へ編入、坂鼻村は安中へ、岩野谷村は中部6ヶ町村への合併の方針 となり
結局、西部では松井田、中部では安中と。そして東部だった板鼻だとかはそれぞれの方へくっついて行って
新しい町になると、これが出来たのが昭和30年3月1日です。

ところが合併促進の昭和28年の時にですね、市に移行するならば、今だと。それは何かというと、
当時、市というのは5万人以上じゃないと市にならなかったわけですね。ところがこれが行われた時には
3万人以上であれば、市にしても良いと。で、安中の場合、丁度3万4000人くらいだったんです。
だから市になるんですけれど、ただ 市にする条件っていうのが昭和29年の9月30日までが限度だと。
そうすると30年の3月の1日に合併した安中は外になっちゃったわけですね。市になれなくなるわけですよ。決まりから言って。

そしてどうしたかと言うと、そういうのが全国で50以上でちゃったらしいですね。
そこで、そういう、出ちゃった町村と話し合いをして、安中はどうしたかというと、
大阪の柏原市だとか、町ですか?北海道の千歳町とか、東京の小金井町、これ等と組んでですね
政府に働きかけてなんとか延ばしてくれとという請願をするんですね。それが要するに、岸信介
安保闘争で樺 美智子が亡くなった事件があるんですけれどもその頃にそれを出して、じゃ、延ばしましょう
ということになって安中市になったわけですね。

そういう経緯があって、町から市になると。いうのが、安中なんかの場合ですね。

昭和33年10月20日に岸信介の名前で官報に告示された。

こういうのが上毛新聞に載っていたのが県下で11番目の市ができたと。
これが要するに安中ということになるわけですね。

ただ、その、安中市が当面の課題として新庁舎の建設だとか、下水道の整備だとか
それから信越線の中間駅、安中と磯部の間に中間駅をつくるというのが一つの課題だったわけです。
それは今でも、出たり消えたりしてなってませんけれどね、それから、公園だとかスポーツセンターとか
或いは新設の都市計画の実施だとかというものはですね、当時の課題として残っていた。

ところがですね、これができますとですね、今、配ったプリントの2枚目の方かな?
2枚目の安中市の誕生って書いてありますけど、この誕生の時にですね。安中町であった
田中という町長さん最後には市長さんになるわけですけれど、議会でもって町を市にすると。
まあ、それはまあ、時間がずれたんですけれど国会請願によって、なんとか通して
安中市になった。ところがこの2枚目の紙の2段目のところ、庁舎問題って書いたところですね。

旧安中町役場は自治庁の定めだと旧役場は職員一人当たりの半分以下の面積。
新庁舎は33年の町議会で総工費4000万で決定済み(設置場所は未定)

場所はどこにするか、全然決めてなかったんです。ただ、予算だけはその範囲でやれと
やって作ろうと、こういう形だったわけですね。

当時のそこに書いておきましたけれども、安中の田中市長さんは、先ずは安中小学校の前を
探したんです。ところがあそこの前は狭くて、それから地価が高すぎてできないと。

そこで次に選ばれたのが、33年6月って書いてありますけど、谷津の長徳寺、今 幼稚園ですか
保育園かな。幼稚園がありますね。あそこのところの敷地千坪あったもんですから、そこを
役所にしようと、ところがこれもですね、狭いというようなことで、まあ、使えなくなった。

そのうちにですね、安中の保健所の北側、今、保健所ってのは、安中の庁舎の中の
一番、なんですか入った奥の方ですよね。保健所があるのは。

【市庁舎の写真を参照してください。】

これが今の安中の市役所なんですよ。この市役所の高いところ、この辺りが市長がいるところです。
この建物は。コッチの方は要するにかなり近代的なカタチで、広場みたいのもあるし、エレベーターも
つけてあるし、というか、実際はその前は、こういう形だった。
どういうわけだか、アメ車が入っている(笑)

この写真の中には。

これみてもわかるんですけれど、こっちが道路です。
この道路から、だから、これから言うとですね、コッチ側から、入ったわけですよ。
道路に沿って。で、どうもこの建物みますとですね、コッチ川に消防署があったようですね。
今の駐車場になっている辺り

・・・写真参照 終わる。

 


予算を立てて、やったんですけど、場所が決まらない。自治体安中っていうのができちゃったんですね。
これについてはですね。皆さんの手元にお配りしたと思うんですけれど、このプリント3枚。
こういうのがあると思うんですけれど。そこの文章を読んで頂ければわかるんですけれど、
主にですね、2枚目のところかな?これは、あの、伝馬町というか、それから谷津、下野尻、5つの村が
くっついてですね。自治体安中って言って、伝馬町の公民館の辺りを役場の代わりにして、全くあの
市と同じようにしてあの頃だったから。町議だとかそういう風な下地から生まれて、
 それから金は全部あの税金はですね、銀行に預けると出さなきゃ脱税みたいになりますから
そういう手続きをしながら行ったのが、自治体安中という形なんですね。

この人たちはですね、その2枚目のですね、真ん中の上の方、賛否両論で真っ二つと書いてありますが上毛新聞だと思うんですが、
自治安中市の原点は、原点ですね建設予定地の「市庁舎の位置を巡る争いだ」ということなんです。
そういう形で自治体ができたと。考えかたによっちゃ、自分に近い所を選んだということだと取れないわけでもない。
そういう風なかたちでやっているうちに、揉めに揉めたもんですから、その2ページの端の方から
右の下の方に建設反対の署名運動が始まったとその趣旨はまず、都市計画を作成し、市民の福祉及び市の
発展に寄与する施設を優先させるべきであり、庁舎建設は後回しにせよというものであった。

そのあとに、段々、くっついてくるわけですね。ですから、単なる位置を、あっちにしろこっちにしろという
問題でなくなる。で、それも当然あると思うんです。それにくっつけてですね、都市計画だとか市民の福祉及び市の
発展に寄与する施設を先にしろとか、市庁舎なんかいらないんだと。ま、要らないとは言わなかったんでしょうけれど、
後回しにしたという形ですね、ガタガタガタガタしたらしい。ところが丁度ですね、市になったもんですから
今度は市長選挙が始まるんですね。それで、田中町長の時にそれがあって、市長がはじまり、市長選が始まったときに、
田中町長は、自分は立候補しないで身を引いちゃうんです。そして、その次にでる、市長さんが話し合いに乗りますから、
是非、協力をしてくれということから始まって、なんとか最終的には収まった。3ページのところに

2月下旬には市庁舎の敷地として県有地の払い下げが決定。建設業者の指名競争入札が実施された。
落札したのは高崎市貝澤町の神宮工業(株)で落札価格は3、350万円であった。3階建て鉄筋コンクリートの新市庁舎の建設が始まった。

ま、こういうことで、安中のいろいろと紆余曲折あって結局、現在のようなかたちになってきたと
いうのが一つの流れだろうというのですね。

【プリント音読】


新庁舎ができて、町長から市長に代わった時の新しい町長さんは 萩原さんって言ってましたか?
その人が要するに話し合いをして最終的にはなんとか収まったと。
いうことですね、新市庁舎ができたと。

総工費が最終的にはですね、3350万円で要するに落札して、新しい庁舎ができたと、
昭和34年。この横の新しいやつですね。

【庁舎の写真を参照】

34年11月24日ですか。4570万でこっちを作ったと。
こういう形ですね。

失礼しました、こっちの新しいのができたのが

平成13年5月の時に、新庁舎完成 敷地面積が13,650㎡。

そして、新しい庁舎ができて、どうなんですか?耐震性があるとかないとか、安中高校の跡地にですね
要するに新庁舎を作ると。委員会までできて、色々と動いているようですけれども、果たして

私が思うのはですね、建設、賛成・反対っていうのは誰でもできるんですよ。
ただ、問題は、賛成なら賛成、何をもって賛成とするかと。
反対ならどこが問題なのか、これをキチンと
掌握してですね。ただ、反対だというだけでなく、そういうものを含みながらですね
よく、言いますけれども 国会も新しい総理ができたという形ですけれども
何が問題でどうだったか?桜を見る会にしてもですね、土壇場になって文章みんな消してしまったと。
いうような形ですよね? 今、今日の新しいあれなんかは、そういう資料がないからもう国会では
討論しません。ま、野党は野党で、なんとかやりたいんだと。言ってるんですけれど、まあ、ああいう風に
ですね、都合が悪いところは消しちゃうって言うんじゃ、良くなくて、あくまでも、何が問題で、今度の
市庁舎にしてもどうした方が一番いいのか? 優先するんだったらただ優先するんじゃなくって、何の為に
それを優先してもらいたいか。それからなんのためにそれをやる必要がないのか?とか、そういう風なですね、
私自身にしても、安高の跡地を使うというにしても、あの校舎使えるのかなぁ~?とかね。
そういうこと一つあります。そして、壊すとなると、相当なお金が掛かると思うんですね。
だから、ある辞めた市会議員の方に聴いたんですけれど、4億何千万だったと、最初は。それが今2億。
下がったというのは要するに、建替えるにも壊す費用が相当かかるということを見込んでそういうことになったと。
ていうんですけれど。果たしてそれで壊せるのかどうかということですね。

僕はいまでも、これ、ちょっと違いますけど、八ッ場ダムが昨日もやってましたけど、
あれを中止して、復活して作ったどれだけ金が掛かったかと思うんですね。

プラスαしても、最初から作った時に使った作る予算があとになってまた自民党が作ったら、幾ら金が
掛かったかと。誰がそれを責任とっているかと。誰も責任取らないですよね。みんな。

何が責任とらされているかというと、結局、国民の税金ですから、国民がバカみたということに
なっちゃうですね。

で、あくまでもそれも政策だと言えば、それで終わってしまうでしょう。

私なんかに言わせれば、民主党やなんかが出来たって言うんだったら、あのなんですか、
政党助成金なん全部国に返してもらいたいですね。
それぐらいの金を余分に使っているわけですから。
そういうことは不問に伏してしまって、もう討議しませんって
いのではちょっと可笑しな話になってくるんで。

市庁舎をあの場所に創るのが妥当なのかどうかっていうことですね。


それだけの必要があるのかないか。あるとしたらどれだけの金がまた、壊したりあのままあれ
耐震に耐えうるのか?専門屋さんが居ると思うけれどね。耐震構造になっているのかどうかっていう
もし、それがそうでなかったら、大変な金になっちゃうと思うんですね。

と、同時に、今の庁舎でできないのか?ってことですね。
或いは、松井田庁舎っていうのは あれもできた時に、NHKの女性アナウンサーが
見学に来て話した時に、非常に立派ですと。ただ、いうなればバリアフリーがなんにもないと。
あの方は足がちょっと悪い方で杖ついて歩いてたですけれども、結局2階に上がるにもエレベーターも
なきゃ、何もないと。我々最初に出来た時に上がったとき別に苦にもならなかったですけれども
正直言って、今ですね、2階上がるだけでも、教育委員会だとか生涯学習課はみんな2階
仮に、体育館の鍵を借りに行くにも、上がらなきゃならない。最近はもっとひどくなっちゃって
松井田の体育館を借りる申請書はどこへ持ってくるかというと、ここへ持って来いって言うんですよ。
この体育館のですね、課長さんここにいますからそこへ持ってきて、申請書出してくれと。
そんなことやってやれるかってね、なんで、体育館はちゃんと生涯学習の中で居るんですよ。
だから担当者が、毎月の予定表取るのに、安中まで行かなきゃならないのかなあ?って形。

それから松井田建設が亡くなるときも、私なんかたまたま区長をやってた時その時、県から来て
松井田のところでは免許の更新は一切できないと、言う風になりますよって言われて
冗談じゃないと、安中のですねところなんていうのは入るだけ、警察の横にありますよ、入るだけでも
大変だし、駐車場もないし、そんなところに行くんだったら松井田の庁舎はいくらでも空いているから
そこへ機械もってきてやらせたらいいんじゃないかと、せいぜいやったって視力検査くらいだろうってですね
そうしましたら、担当者が じゃ、県に持ち帰って検討します。っていうことになって今でもって、水曜日
松井田の警察の支所ですか?あれは、あすこでですね、水曜日検査してます。で、免許証の更新もできるんです。
取りに行くのは何時でもいいんです。水曜日以外でも中にいる、警察官の方が対応して免許証をくれますから
そういうことはできるんですけれども、段々、そんな形になると大変なアレになってゆくなぁ~と
感じでですね、今でも正直言って松井田の庁舎のですね会議室なんか見たことあると思うんですが
スゴイ、会議室ですよ。びっくりするくらい。だから今でも国会でですね、質問して立ったり、座ったりしてね

答弁してるっていうの今の時代に合わないんじゃないかって、時間制限が何分って決められてる。
その場で🎤でもなんでもみんああるんですから、その場でドンドン答えて行けば良いんじゃないかって
思うんですけど、まあ、昔の流れがあるからそうなるのかなぁ~と思うんですけど
せいぜい、その問題点をですねキチンと整理して、皆さんが納得できるようなカタチものが
できているのが、一番ベターじゃないかと思うんですね。そうでないと、ただ反対、ただ賛成っていうんじゃ
拙いじゃないかなと私は思うんです。そういう点でですね、いろんな流れがあって、市庁舎ができたり
という形になっていると思うですけど、ただ、確かに働く人たちから見たら、新しいところで広いところでの方が
楽だとは思うんですけれどね、ただ、この近場の人はハッキリ言って良いと思う。奥の方から来てね、松井田の庁舎も
消すことになったら、どういうことになるのかな?とおまけに、今、ほとんど、なんですか、インターネットで
できるようになっちゃって、国勢調査もそういう風になったという形なんです。
だから恐らく、印鑑もいらなくなるんじゃないかと思うんですね。
もう、青色申告なんかやる場合でも印鑑押す場がないんですから、機械でやってますから。
そう言う時代になってくるだろうと思うんですね。だからそこら辺がどういう風に変化するのか
わからないですけれども、今、スマホがなきゃ、何もできないっていうのが正直あると思うんですね。
スマホがないと、割引もしてもらえない、言うような形ですね。だからそういうのをどういう風にして
克服するかと、ま、無い方がしょうがねえだって言われればそれまでですが、だから例えば国勢調査
機械で全部今できるし、青色申告もできるんですけれど、それを使いこなせなかったらどうすればいいのでしょう?
ちょうど、我々がですね、教員になった時千葉で教員をやっていたんですけど、やった時には、鉄筆でもって
原紙をガリで切っていたんですよ。謄写版で印刷したんですよ。それがワープロが出て来て、最初、文豪なんて
こんなデカい機械でしたですよね、今、もう、こんな小さいやつでしょ?そういうのでもってやってた。
で、要するに全部、こういうコピーが簡単にできるようになった。今までは、全部手書きでやっていた。
ドンドン、ドンドン、変化していますから、これからも益々、変化してゆくと思うんですけどね。
せいぜい、要するに理解と納得のできるようなですね。ただ作りたいという 金が一杯あるなら、いざ知らず
そういう状態ではないなかで新しい庁舎をつくるんであればですね、より機能的であり、作るとするならばですね

それから必要なもの、今年はコロナのせいで、避難所さえみんな満杯で入れなくなったというような状態ですね。
安中なんかの避難所っていうのはそういう形で 全て、パーフェクトにですね、体温からなにからなにまで
測れるような施設で何人くらい収容できるのかな。っていう感じがしますよね。
公民館なんかに至っては やっとクーラーが入ったという感じでして、クーラーのない公民館って
松井田の公民館ってのはあのう、2つしかないですから、安中の場合は各場所に公民館ありますよね。
で、市の担当者が来てると。松井田の場合は松井田文化会館にある公民館と さらうどの公民館だけです。
あと、細野にも九十九にもありますけども、全部それは公民館のかたちじゃないんです。

そういうようなですね、バランスの崩れたことを平気でやってると、かつて有線がですね松井田
全部入ってたんです。有線が入っていて合併した時に、安中にないから入れたんですね。
だけど今でもって、そういうアンバランスなことはそのままになっていると。いうようなことで
まあ、愚痴っぽくなっちゃいますが、けれども、そういう形 あんまり良いことではないよなと、
ですから、皆さんが納得できるような形でですね、問題点をキチンと掌握して、賛成するなり、反対するなり
した方がよりベターになるんじゃないかなと思います。

ま、そういうことで、ちょっと纏まんない話になっちゃって
申し訳ないですけど 要するにそういうことで安中の場合も
よくよく見極めてやって戴いた方がいいと思います。

じゃ、そういうことでちょっと纏まりませんでしたけど、終わります。